アタマの中

わたしの頭の中を文字にしてる。

ここはゴミ箱



ブログを始めて1ヶ月が経ちました。多分。正確にはいつから始めたのか分からないけど。


1ヶ月以上経って分かったことは、毎日更新はやっぱりすげぇってこと。

毎日ただブログを更新するだけじゃなくて、中身のある面白いブログを更新し続けることってやっぱりすごい。


毎日本腰入れて更新することはわたしには無理だと分かったし、世の中の疑問を徹底的に調べて毎日文字にする大変さも分かったし、わたしには根性がないことも分かった。

そして、そこまで興味があることでもないことが分かった。


でも、思ってるよりは文字を書くこと、文章を書くこと、考えること、好きだと思った。


から、思った時に思ったことを書く。更新頻度は多分週一とかになると思うけど、その程度の興味。でも続けたいと思えることだと分かった。



ブログを始めてから色々なことに挑戦してきた。記事には書いていないけど、今は色彩検定の勉強、TOEICの勉強、専門学校探し、通学時間の読書。


それはガールズバーで出会った素敵な人の話が影響している。


やりたいことがないというのはおかしい。なにも挑戦していないのに、最初からやりたいことを見つけようとするのは間違っている、だから挑戦することを恐れるな、と。


それから、辞めることも恐れるなとも言われた。


まずは10個気になること、好きなことを始めてみてきっと3日以内に辞めてしまうものが半分くらいあって、1ヶ月で辞めてしまうもの、3ヶ月、、とどんどん限られていく。2つくらいに縛られたらまた新しいことを8個始まればいい。それだけのことだ。自分に合わないものは絶対にある。だからそれを諦める、辞める勇気をもってまた新しいことに挑戦する力をつけろ。そしたらそのうち何か没頭できるものに出会える。と言われた。



この前TVで世界一の女子高生的なのを放送していた。アメリカで行われているもので女子高生で1番を決める大会で優勝したのが日本人女子高生だった。その子の母も同じようなことを言っていた。辞める勇気。



投げ出すことではない。辞めた分他のことを始めればいい。逃げじゃない。



だからわたしはこのブログの更新を少なくする。ブログから日記やわたしの考えのゴミ箱と化す。






留年して良かったこと



大学を留年して、変わったことがある。それは、人との距離感をうまく保てるようになったこと。



本当は大学を4年で卒業するつもりだったから、今まで続けてたバイトも3月でやめて晴れて4月からニートとなった。


大学にも1回も行かず本当に何もせず、少しだけ就活をしてみたりしたけど、本当にニートだった。



その生活を約半年間続けたら、悩み事が減って自分と向き合える時間ができた。

学校やアルバイトで毎日忙しかった頃は毎日人の小さな行動や言動に左右されたり、敏感に反応していた。変化に気づいて対応できる分、気づかなくてもいい嫌なことにも影響を受けていた。


自分の気持ちよりも、周りのことに執着していたせいで、将来のことや自分の考えは後回しになっていた。と今になって思う。



そんな毎日から距離をおき、人のことに関心が向かなくなった。余計な心配ごとが減った。


気にしぃの人は他人の問題を自分の問題と勘違いして、自分と他人の境界線の引き方が下手な人だと思う。少なくともわたしは。


その境界線の引き方が、多分まともになれた。それはニートになったから。これが一番有効な治し方だったけど、そもそもその線引きが下手ということ自体に自覚がなかった。


留年してニートになったから、距離感を保てるように結果的にはなれた。おまけみたいな感覚で。



わたしにとって留年は必要な期間だった。



多くの人は会社や学校とか、なにかに所属していて、何かのコミュニティと関わりながら生活していると思う。自分だけの問題では済まないこと、自分の問題じゃないのに悩んでいる人、それが正しいと思い込んでいる人、1回離れてみて、自分自身と向き合うことの大切さを感じほしい。

でも、簡単には距離を置いたり、コミュニティから離れることはできない。


だからこそ、留年という贅沢な形でこの時間をつくれたのがなにより良かったこと。





毎日更新の必要性



別にブログに限った話じゃないけど、SNSとかまあ、YouTubeとかなんかコンテンツてきなのって毎日更新が当たり前てきな風潮あるじゃないですか。


毎日更新って簡単にできることではないし、もちろんそれはネタてきな内容てきな意味でもあるけれど、でも、それだけじゃなくて自分の納得できるものをコンテンツとして発信するのを毎日できるのってすごいことだと思うんです。



内容がなくても、面白い日面白くない日、内容がある日ない日、色々あってもやっぱり継続は力なりなんだよなって。



最近このブログを毎日更新していて、昨日書いたブログなんかは今まで書いたしょうもないやつなんかよりも時間かけて書いたし、何回もあーでもないこーでもないってして、書き直ししたし、なのに、今まで毎日アクセスあったのに今日ゼロだし。



こちらの意図と、見ている側はまるっきり世界が違うことを再認識した。



まぁ、自己満のブログだけど、でも、やっぱりアクセス数ゼロって凹むな〜ってワガママをいってみる。



こんな内容のないことを毎日毎日更新することに意味はないと思うけど、意味なんて全部になくて、意味づけを自分ですればいいだけ。



わたしはそれでも毎日更新していく。


 

前までは、きっと、意味がないと決めつけて、続ける努力をしなかったけど、それが一番大事と学んだから。








障がい者擬似体験に意味はあるのか

 

 

 

今日スナックに眼帯をつけたお客さんがきた。20年ほど前くらいに交通事故にあって、片目が完全に見えなくなってしまったらしい。ずっと野球をしていたらしく野球の話で盛り上がった。見るよりやる方が好きって話で盛り上がって、最近はしてないな〜っていっていたから、草野球とかしてたんですか?と聞いたら、事故を起こしてからは遠近感が分からないから全くスポーツはしていないと言われた。

 

そこで私は今思うと失礼な話だけど、私も高校生の時、体育の授業でソフトボールをした時に、打った球が目に当たって2週間くらい眼帯生活をしていた話をした。当時バスケットボール部に所属していて部活に出てもボールの遠近感が分からなくて、取れなかったり、急に死角からオフェンスが現れるとビックリしてついていけなかったことなど、眼帯生活の話をした。

 

 

私の話を聞くと、事故にあって目が覚めた時の話を始めた。目が覚めた時にはもうすでに失明していたらしい。トイレに初めていった時まっすぐに歩いてトイレまで行けなかった、歩けなくて壁に当たってしまった。という話を聞いた。ただ単に眼帯しているのとでは訳が違った。

 

本当に申し訳ない気持ちになった。

 

私としては、似たような体験を話して共感できたらいいなくらいの軽い考えだった。でも私の話はあくまで眼帯生活擬似体験でしかないのだと気づいた。

別に障がいを持った人に対して偏見もない。むしろ私は配慮が足りなかった。偏見や差別をしないことと、配慮をしないことは違う。誰にでも私は同じ対応をするように心がけているけど、すべて同じように扱えばいいということではなくて、何というか、別に特別扱いというわけではなくて、とにかく配慮が足りなかった、と反省している。

 

私は、眼帯生活というものをたった2週間擬似体験しただけで、その人の苦労をわかったつもりになっていた。分かった気になったつもりはなかったけど、そう感じさせてしまった気がした。そもそも片目失明したこともないのにその感覚を知らなかった。失明した時、どういう感覚に変わるのかも想像もしていなかった。眼帯って辛いですよね〜くらい。癖っ毛って雨の日大変ですよね〜くらい。に感じさせた。多分。

 

でもその人は眼帯生活だけでもわかってくれて嬉しいし、目が見えないことの大変さを話せるきっかけになるから自分のことをわかってもらえるから、すごく嬉しいと言われた。

 

帰り道に色々考えていたら、ふと小学生の時の高齢者体験を思い出した。

オモリを背負って階段を上り下りしたり、専用の手袋をはめて小銭を拾ったりした。当時の私は、大変なんだな〜と思う反面、ホントかな〜と疑ってしまった記憶がある。

 

この時の経験もまた、知ったつもりになっているに過ぎないのだろうか。

障がい者や高齢者など、生活に多少なりとも不自由さを感じている人の体験をすることに意味があるのだろうか。

 

確かに疑似体験では不自由さを体験できる。けれども、それはあくまで体験であって本当の不自由さではない。障がいを負うことによって単に不自由というだけではなく、そのものの辛さ、人間関係、苦悩、葛藤、色々私たちには計り知れないものがある。そのほんの一部を体験したからといってわかるわけではない。分かった気になってはいけない、失礼だ。。

 

経験は大事かも知れない。でもその経験は表面上の辛さだけしか見えていなかったこと、分かったつもりになってはダメだと知った。今日話してくださった方は、たまたま嬉しいといってくれたけど、本当は傷つけてしまったかも知れない。

 

経験に本当に意味があるのかは私には分からないが、それよりも目の前の人に配慮して気持ちによりそって理解しようという姿勢の方が大事な気がする。

 

今日はそのいい体験になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

企画倒れを防止せよ




ブログをやっていると、書きたいテーマとか疑問に思ってることを、あらかじめ調べることが多いと思うんだけど、そこでなんか勘違いだったり、調べて完結してしまったりしてしまうことが多い。


今日もそう。



今日はマナーについて疑問に思ってること、良い悪いとは、っていうちょっと哲学的だけども普段の生活のマナーについて異議を唱えようと思っていた。


けど、調べたらそもそも正しいと思ってたことは勘違いで、結局なにを書きたいのか分からなくなって、全部消してしまった。



そういうことが多々ある。



というか、書き始めたものの、なにが言いたい仲良くわからなくなったり、終わりが急に失速したり。



まだまだだなぁと思うことも多い。


その分知らなかったこと、知ろうとしてなかったことをちゃんと知れるきっかけになるから良いんだけど、そういう下調べとかして情報を届けているブロガーさんはすごいなぁと思った。


書きたいことを100%伝えきるのは多分絶対無理だけど、30パーでも伝えられるような、文章力、リサーチ力、つけられるようにしよう。今年の目標。




頭悪いやつほど自分のことが分かってない



仕事において、できる人というのは、自分のことをしっかり理解できている人のことらしい。

自分の技量を過不足なく客観的に把握できてる人こそできる人と呼ばれるらしい。


なるほど。



まぁ、仕事って色々あるけど、確かにこれはどんな仕事でもそうだなって思う。知らんけど。

何もできないくせに、これやらせてくださいとか、俺が俺が星人になる人は、できる人ではないし、逆に仕事のスピードが早いのに指示を周りに出さなかったりできるのにやらない人は、所謂できる人にはなりきらない。


社会に出てもない学生が思う幻想であるのかなぁ。



わたしは割と自信がない方で、余計なことはしたくないタイプ。だから就活の時に、これがやりたい!って思ったことがあっても、今までに何かに打ち込んでそのやりたいことにつながる実績がないから、説得力がないから、言えないなぁと思うことがあった。


それっぽい話をガールズバー で色んな業界の人に投げかけてみたけど、みんないい加減だなぁとしか思えなかった。就活なんてくだらねぇなって心底思った変態オヤジも多かった。



わたしが一番その時しっくりこなかったのは、やる気があればいいんだよ、やる気が一番大事という、なんか根性論みたいなの。


やる気が大事じゃないと言いたいわけじゃなくて、やる気だけあればなんでもできるわけじゃない。



例えば、エンジニアの職業にパソコンなんも分からない人がやりたいっていったらなれるかって話。その人の今までがやりたいと思うことに果敢に挑戦してきて、成果や実績がしっかりと結果として出せていたり、やると決めたことに対して逃げないエピソードがあればやる気採用されるかもしれない。

けど、グータラ寝てたのび太みたいなやつが寝ぼけていきなり、エンジニアなりたいです!!!なりたいんです!絶対!とか言ってもなにを信用すればいいんですかって話じゃないっすか?


のび太がやりたいこと見つけて、これやりたい、やらせてください、っていうのには手順が必要だと思いませんか?


まあでも、のび太なら確実に今度はできるとか、自分の能力を過信して、行動すると思う。




話を戻すと、そのやる気が一番大事って話、こんだけ否定的な意見を書いておいてなんだけど、まぁ、その人の話しっくりこなかったけど、ビビッとはきた。


あ、なんか考えすぎてたのかなって。気楽に無責任にやりたいという気持ちだけで挑戦していいんだ!わたしはしてこなかったから、そんな簡単でもいいんだ!とは思った。


周りのこと考えたり自分の今の状況を考えずにやる気だけで新しいことに挑戦できるのは、むしろ素晴らしい事かもしれない。




まぁ、でもやっぱりわたしはのび太にはなりたくないなって。





餃子革命




書くことがないので、餃子の話します。


高校生の時に餃子にかなりハマって毎日のように食べてたけど、なによりもお母さんの作る餃子が一番好きで、土曜日は絶対餃子🥟作ってた。



好きな餃子のタイプは、野菜多めで白菜シャキシャキの、ニンニク生姜たっぷりの粗めのお肉の餡。市販の餃子はこねくり回されたペーストっぽい餡が多いから好きじゃない。野菜も大きめじゃないし、ニラ入ってんの少ないし、好みじゃない。ニンニク効いてても生姜が効いてるのも少ない。だめ。


そして断然焼き餃子派。


ごま油ひいて、水入れて蒸し焼きにしてから、最後蓋開けて水分飛ばして、焼き目付けて、最後香りづけにもう一回ごま油かけて強火で一気に焼いて香ばしい匂い付け。


タレはお酢多めの醤油少なめで七味みたいなの入ってるラー油たっぷりで、一口目はなにも付けずに食べて、肉汁を飲む。二口目に肉の断面にタレ染み込ませて、しょっぱくして、ご飯🍚にバウンドさせて、食べる。そして、タレのついた米を頬張る。うま。



最近はご飯と一緒に食べない時とか、外でモタレそうな餃子食べる時は、お酢とたっぷりこれでもかってくらいのコショウで食べるのがいい。しつこい系にはこれ。めちゃくちゃ美味しい。




めちゃくちゃこだわりあるけど、皮だけはなんでも平気。分厚いモチモチ生地も好きだし、薄っぺら〜い安そうなのもそれはそれで好き。


餃子専門店とかは割とモチモチ系が多い気がするけど、わたし的に生地にこだわってます系のお店は信用してない。汚い中華屋さんとかの餃子が何だかんだ美味い。気がする。



最近の餃子業界は餃子をオシャレのフィールドにがんばって持ち上げようとしてるような気がする。ワインと餃子のお店とか、シャンパンと餃子のお店とか。餃子は今のままそのままでいいんだよ。ビールかハイボールでいいんだよ。無理すんな。落ち着け。大学デビューしたてのインキャみたいなことするな。



カレーとかもそうだけど、カレーはみんなで食べるから美味しいし、給食のカレーが世界一美味しいし、家で献立困った時のカレーだから美味しいんであって、オシャレなカレーは美味しいカレーじゃなくて、ただのカレーに成り下がっちゃうんだよ。


餃子も家族でみんなで包むから美味しいし、ホットプレートで一気に焼くから美味しいし、みんなでつっつくから美味しいんだよ。



だからお客さんが自分たちで作る、手作り餃子バー作ればいいんだよ。お好み焼きみたいに、もんじゃとか、鍋みたいに、みんなで作って食べるを提供すればいいんだよ。好きな皮の種類と、入れたい餡決めて、みんなで包んで、目の前で焼く。いいじゃん、楽しそうじゃん!これこそ餃子じゃん!



でも絶対にそんなところ行かないけど。