アタマの中

わたしの頭の中を文字にしてる。

障がい者擬似体験に意味はあるのか

 

 

 

今日スナックに眼帯をつけたお客さんがきた。20年ほど前くらいに交通事故にあって、片目が完全に見えなくなってしまったらしい。ずっと野球をしていたらしく野球の話で盛り上がった。見るよりやる方が好きって話で盛り上がって、最近はしてないな〜っていっていたから、草野球とかしてたんですか?と聞いたら、事故を起こしてからは遠近感が分からないから全くスポーツはしていないと言われた。

 

そこで私は今思うと失礼な話だけど、私も高校生の時、体育の授業でソフトボールをした時に、打った球が目に当たって2週間くらい眼帯生活をしていた話をした。当時バスケットボール部に所属していて部活に出てもボールの遠近感が分からなくて、取れなかったり、急に死角からオフェンスが現れるとビックリしてついていけなかったことなど、眼帯生活の話をした。

 

 

私の話を聞くと、事故にあって目が覚めた時の話を始めた。目が覚めた時にはもうすでに失明していたらしい。トイレに初めていった時まっすぐに歩いてトイレまで行けなかった、歩けなくて壁に当たってしまった。という話を聞いた。ただ単に眼帯しているのとでは訳が違った。

 

本当に申し訳ない気持ちになった。

 

私としては、似たような体験を話して共感できたらいいなくらいの軽い考えだった。でも私の話はあくまで眼帯生活擬似体験でしかないのだと気づいた。

別に障がいを持った人に対して偏見もない。むしろ私は配慮が足りなかった。偏見や差別をしないことと、配慮をしないことは違う。誰にでも私は同じ対応をするように心がけているけど、すべて同じように扱えばいいということではなくて、何というか、別に特別扱いというわけではなくて、とにかく配慮が足りなかった、と反省している。

 

私は、眼帯生活というものをたった2週間擬似体験しただけで、その人の苦労をわかったつもりになっていた。分かった気になったつもりはなかったけど、そう感じさせてしまった気がした。そもそも片目失明したこともないのにその感覚を知らなかった。失明した時、どういう感覚に変わるのかも想像もしていなかった。眼帯って辛いですよね〜くらい。癖っ毛って雨の日大変ですよね〜くらい。に感じさせた。多分。

 

でもその人は眼帯生活だけでもわかってくれて嬉しいし、目が見えないことの大変さを話せるきっかけになるから自分のことをわかってもらえるから、すごく嬉しいと言われた。

 

帰り道に色々考えていたら、ふと小学生の時の高齢者体験を思い出した。

オモリを背負って階段を上り下りしたり、専用の手袋をはめて小銭を拾ったりした。当時の私は、大変なんだな〜と思う反面、ホントかな〜と疑ってしまった記憶がある。

 

この時の経験もまた、知ったつもりになっているに過ぎないのだろうか。

障がい者や高齢者など、生活に多少なりとも不自由さを感じている人の体験をすることに意味があるのだろうか。

 

確かに疑似体験では不自由さを体験できる。けれども、それはあくまで体験であって本当の不自由さではない。障がいを負うことによって単に不自由というだけではなく、そのものの辛さ、人間関係、苦悩、葛藤、色々私たちには計り知れないものがある。そのほんの一部を体験したからといってわかるわけではない。分かった気になってはいけない、失礼だ。。

 

経験は大事かも知れない。でもその経験は表面上の辛さだけしか見えていなかったこと、分かったつもりになってはダメだと知った。今日話してくださった方は、たまたま嬉しいといってくれたけど、本当は傷つけてしまったかも知れない。

 

経験に本当に意味があるのかは私には分からないが、それよりも目の前の人に配慮して気持ちによりそって理解しようという姿勢の方が大事な気がする。

 

今日はそのいい体験になった。